続・真(ま)フランスの日常

フランスの時事、フランス生活の実態、エコライフ、日本を想う日々・・・                                    (ココログで綴っていた「真(ま)フランスの日常」 http://mafrance.cocolog-nifty.com/ の後継ブログです) 反核・反戦!

「皆さんは、避難したくてもできない人の声を聞いたことはありますか?」

遅々として進まないCRIIRADのウェビナー報告記事ですが、先週、CRIIRADが、原発事故自主避難者である森松明希子さんの発表部分(日本語)を別枠で投稿してくれたので、順番が前後しますが、先に記事にします。

私が森松さんの存在を知ったのは、グリーンピースの署名呼びかけメールでした。約一年前のことです。

https://act.greenpeace.org/page/55832/petition/1?utm_source=Pub%20e-mail%20&term=Fukushima9th_0220_All&en_txn8=PE-Email&utm_medium=email&ea.url.id=4579334

その時は彼女の訴えに即座に賛同し署名をしただけだったのですが、今回の動画で話を聞きながら久しぶりに涙がこみ上げました。

今日はもう3月19日で、10年目の追悼もその日限りで、次の追悼は一年後で、福島の話をするのは“不謹慎”で、原発事故の話をするのも風評被害になるからやめたほうがいい、なんていう風潮が日本にはあるのだと思いますが、この動画の内容は日本人なら知っておくべきだと思いました。

できれば、17分間、最初から最後まで聞いてほしいです。でも、17分も聞いてる時間はない!・・・という人のために、以下に文字起こしをしました。こんな長い文章読んでられないっ!という人は、太字の部分だけでも読んでみてください。




www.youtube.com





みなさんこんにちは。森松明希子と申します。


発言の機会をいただきましてありがとうございます。

東京電力福島第一原発の爆発から2か月たった、2011年の5月に、私は福島県郡山市から大阪市に二人の子供を連れて避難をしてきました。

震災当日は、0歳と3歳だった私の子供たちは、現在、10年経って、10歳と13歳になりました。

子どもたちの父親である私の夫は、この10年間たった一人で福島県にとどまり、家族の生活を支えながら、職業は医師として事故前と同じ病院で福島県で働いています。

父親と子供たちが会えるのは、月に一度だけです。

夫は、仕事を終えた足で、金曜日の夜に、福島県郡山駅発の夜行バスに乗って、土曜日の朝、大阪に到着します。

二人の子供たちと土曜日と日曜日過ごして、そしてまた、日曜日の夜に夜行バスに乗って福島県に帰っていきます。子供たちは、これまで10年間、沢山我慢をしてきました。父親と別れる度に号泣し、何度も何度も涙で枕を濡らす日々が、当時は続きました。

私たちは放射能から子供たちの健康を守ることと引き換えに、この10年間、家族4人が、同じ屋根の下で一緒に暮らすという、普通の暮らしを奪われてきました。

10
歳になった私の娘の年齢が、我が家の避難生活の年数と重なります。

私たちが今も避難を続けているのは、福島原発事故による放射能汚染が今もあるからです。

原発事故の被害の本質というのは、放射性物質による核被害、つまり被爆の問題なのです。

国が国策で推し進めた原発の事故によって、無差別に放射性物質がばら撒かれ、周辺の環境を汚染しました。

事故直後、空間線量は、原発から60km離れた福島県郡山市でも、毎時8,2マイクロシーベルトが計測されました。仮にこの線量を一年間浴び続ければ、一般公衆の被ばく限度とされている年間1ミリシーベルト70倍を超えることになりますが、この10年の間で福島県郡山市というところは、強制避難区域に政府から指定されたことはありません。

私たち一般市民には、直後から正確な情報は知らされず、私たちは無用な被ばくを重ねてきました。

そして、原発の爆発によって、空気、水そして土壌が著しく汚染される中、私たちは水道水から放射性物質が検出されたとテレビのニュースで報道されてもその水を飲むしかなく、当時3歳だった我が子にもその水を飲ませるしかありませんでした。

また、2011年の5月には、福島だけでなく、隣の茨城県、千葉県、東京でも、母親たちの母乳から放射性物質が検出されたというニュースを耳にしましたが、私は事故直後からずっと汚染された水を飲み続け、生後5か月だった我が子にも母乳を与え続けてしまいました。

私たち一般市民は政府から何も知らされず、外部被ばくと同時に内部被ばくも受けることになりました。

一体どれだけ初期被爆をさせられたかもわからない上に、更にこれ以上私たちは1ミリシーベルトたりとも無用な被ばくを重ねたくはないと思っています。

わかって被ばくすることと、何も知らされずに被ばくさせられるということは、全然意味が違います。

私は子供を連れて母子避難を開始するとき、避難したくてもできない人の声を聞きながら、それでも最も直接的に被ばくから自分たち、それから子供の身を守るために私は避難をするという決断を下しました。

皆さんは、避難したくてもできない人の声を聞いたことはありますか?

私の息子が当時通っていた幼稚園の先生は、「親が避難しなければ子供は避難ができないから、私はここにいて守らなければならない子供たちを守るけれども、あなただけは、例え母子避難で小さい子を連れてどれだけ大変でも、大阪に避難して子供たちを守ってあげてね。」と幼稚園の先生から背中を押され、避難させてもらいました。

また同じ時期に第一子を一緒に出産した郡山のお母さんは、事故から数年間は、毎年夏休みが来ると、保養の情報を私が送るんですけれども、それを聞いて、大阪に子供を連れて一週間ほど、福島の外に自分の子供を連れだしておられました。

その時に福島のお母さんは、「福島でやっている除染なんて、ただただ高圧洗浄機で家の壁に向けて、水しぶきを浴びながら自分たちが被ばくをしながら除染しているんだ。こんなのは、東電の社長がやればいいんだ。」と、泣きながら怒っていました。

そして、こんなことも言っていました。「一年に一度だけ、夏休みの一週間とか10日ほど子供を福島県外に出したからと言って、それで自分は子供を守れているなんてとても思えない。私だって、本も読めば、インターネットで調べたりもできる。そうすると、チェルノブイリ原発事故と比べて、郡山くらいの放射能汚染があれば、もっと長期にもっと頻繁に子供たちを避難させたほうがいいことくらいわかっている。だけれども、年に一度自分は、保養に出すのが、私にできる精一杯だから。」と肩を落として泣いてた姿を、私はこれまでの10年間で一度も忘れたことはありません。

郡山には、この10年の間で、街中に家の除染をした放射性物質が出るフレコンバックが緑や黒のビニールシートに覆われて、各家庭の庭先や、街のあちこちの空き地に積まれていたりしました。

街中の公園には、モニタリングポストと言って、放射線が計測され、表示されるものが立っています。

大阪の街には、それはありません。

よく政府は、放射線量が下がったから帰ってきなさいとか、もう戻れるよという風に喧伝しますが、下がったのは、事故直後の空間線量が、その時の高線量と比べて下がっただけであって、今でも土壌には降り注いだ放射性物質が溜まっているところ、ホットスポットがありますし、原発事故以前の通常の放射線量まで下がったことは、この10年間では、一度もありません。

むしろ放射性物質が地面に降り注ぎ、それがしみこみ、土壌は汚染されたままです。郡山市内の土壌は、放射線管理区域の10倍以上の土壌汚染を計測しています。

私が思うに、地表に一番近いのは、大人ではなく、土遊びをしたり、落ち葉拾いをしたり、砂場で遊んだりする子供たちなんです。身長の低い子供たちなんです。そして、被ばくに脆弱なのも子供たちなんです。それは科学的にわかっていることで、世界中で知られていることなんです。

原発は、国策なのに、被ばくから身を守る制度は、10年経っても、この国には何一つありません。ましてや、子供たちを守る制度や、具体的な施策の実施というのもありません。

他方で、避難できたからと言っても、国を挙げての支援や保護の制度が何一つない中で、先ほども申し上げた通り、強制避難と自主避難という風に線を引いて、まるで強制避難の人たちだけが、オフィシャルな避難者のように扱われ、原発避難者となった私たちは、差別や偏見、そして、避難者イジメにさらされることになります。

避難している人と、留まっている人との分断ばかりが煽られて、コミュニティーは崩壊し、個人の尊厳も自身のアイデンティティーも奪われるという事態が起きるというのが原発事故のもたらす被害です

避難者イジメや、誹謗中傷を避けるために、避難していることを隠してしまう。隠れ避難民となってしまう人がいるということは、私たち原発避難者の間ではよく知られていますが、隠れることにより、より被害の実態が把握されなくなります。避難者の姿は見えなくさせられ、正確な避難者数もこの国では一度もきちんと把握されたことはありません。

例えば大阪では、2017年に復興庁が公式に発表していた避難者数は88名でした。でも、避難者たちが、そんなに少ないはずはないということで、精査して数を数えなおしたところ、10倍の800名近くまで上方修正されたという事実もあります。

ずさんな人数把握は、そのまま原発事故被害者に対して正当な補償も賠償も保護もそして救済も与えられない、必要な施策も実施されないということに他なりません。

そういう10年間でした。

そして、帰還した人たちも、安全だから帰るというのではなくて、保護や具体的な救済がない中で、経済的事情、精神的苦痛に耐えかねて、不合理な線引きのために、差別を受けながら避難を続けることができないということで、泣く泣く帰っていった避難者たちも沢山知っています。

 

このように、原発事故被害者が、避難しても地獄、留まっても地獄というような10年間だったと証言できると思います。

避難者は今も避難をしていますし、責任を追及される側、国策で進めた国と事業主である東京電力が、被害を小さく見せるために勝手に引いた線引きにより、差別、偏見、分断が助長されることによって、原発事故被害者は、2重にも3重にも苦しめられるという事態が生じている、というのが避難者の現状です。

 

私は、目に見えない放射能被害が、ますます見えなくさせられ、なかったことにされることは間違っていると思います。これから先、将来のある子どもたちに、健康被害のリスクを少しでも低減させたいと思うことは親として当然の願いであり、またそれは権利でもあります。

無用な被爆から免れ、自分自身や子どもたちの健康を享受するという権利は基本的人権だと思っています。

人権侵害が間断なく続いているのが、この国の状況なのですが、人々に無用な被爆を強いる立場に立つのか、それともその反対の立ち場に立つのか、ということを問うていきたいという風に思っています。

人の命や健康よりも大切にされなければならないものは、あるのでしょうか?

私は、放射線被ばくから免れ、健康を享受する、自らの命と健康を守る行為が原則だという風に考えています。

 

それから次に、短い時間ですが、民事手段訴訟についてお話したいと思います。

 

日本国内では、全国で30近くの、福島原発被害者の民事集団訴訟があり、国と東京電力、もしくは東京電力のみを被告として、裁判所に訴えが提起されており、原告数は総勢で約1万4千人の人々が声を上げています。

2020年の9月には、国内最大規模の民事集団訴訟「生業訴訟団」が国の責任を認めさせる仙台高等裁判所の判決を取りました。

しかし、群馬訴訟、東京高裁判決では、今年の1月に国の責任を認めないという判決が下されました。しかも、群馬のこの東京高裁判決では、高裁審議の中で被告・国、東電は、避難者に対して我が国の国土に対する不当な評価となるなどと、避難をしていること自体が、国土の評価を下げるなどの侮辱的、人格否定の主張をし、放射能をばら撒いた責任を反省することなく、逆に被害者に責任を転嫁するという暴挙にでました。

 

しかし、私たちは、理不尽な国や東京電力の主張に屈せず、そして分断政策には乗らずに多様な被害を各訴訟団が立証し、被害者同士が連帯し、市民社会に恒久救済と、二度と各災害、原子力惨禍を繰り返さないことを、市民社会に共感を得ながら訴え続けています。

私は、東京電力福島第一原発事故の本質は被爆の問題であり、人々の命や健康に関わる権利の侵害だという風に考えています。

放射線被ばくから免れ、健康を享受する権利の確立が、今こそ全人類にとって、とても必要だと思っています。

世界中のみなさんからも、福島原発事故、被害者救済訴訟に対する応援、ご支援、連帯をお願いしたいと思います。

東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream (サンドリと呼ばれてます)