続・真(ま)フランスの日常

フランスの時事、フランス生活の実態、エコライフ、日本を想う日々・・・                                    (ココログで綴っていた「真(ま)フランスの日常」 http://mafrance.cocolog-nifty.com/ の後継ブログです) 反核・反戦!

「日本人は会う人ごとに色んな顔を持っている」 平野啓一郎

 

France culture 『Hors Champs』連続特別番組Japon 

第四回 ゲスト:平野啓一郎

 

2016年1月22日

 

(インタビュー抜粋)

 

 

Laure Adler(以下A):あなたの小説のスタイルは作品ごとに違いますが、共通したテーマを有しています。それは、“自分とは何か”。あなたは“何者”ですか?

 

平野啓一郎(以下平):まさに仰るとおりで、自分とは何かというのが僕自身の小説の一番大きなテーマであり、ひいては僕の読者にとっても一番大きな関心なんですね。だから、自分とは何かというのは、わからないですね。そしていくつもあります。逆に言うといくつも自分があると思っています。

 

 

A:日本人にとって、自分を知るというのは難しいことですか?

 

平:日本では自分とは何かということが常に職業選択と非常に強く結びついてきたんですね。つまり、何の職業をしているかっていうことですね。だいたい日本では終身雇用という制度があって、20代の頃に一つの仕事に就くと65歳くらいまで、定年退職するまでずっと同じ仕事をするという伝統がありました。ですから10代の頃には仕事を選ぶ前に自分は一体何者なのかという、どういう仕事をすべき人間なのかということを非常にまず悩まなければなりません。そして90年代半ば以降、経済状態が非常に悪くなっていきましたから、自分はこういう人間なんだという風に自覚してそれを生かした仕事に就こうと思ってもなかなかやりたい仕事につけない状況が生まれました。そうして就職という機会に社会的に承認されることのない個性を抱えた人たちっていうのが僕らの世代の特徴で、つまり、社会の中で自分は一体何者なんだ?ということを非常に思い悩んだのが僕の世代でした。ですからあなたは何者ですか?と聞かれたときにすぐに答えられないということにおいて、僕は実は読者と同自在性(?)を有していると思います。

 

 

A:『最後の変身』の主人公は“個人”になれないという状況に置かれます。今、2016年の日本において、若い人たちは“個人の私”になれるのか、それとも、否が応にも集団に属さなければならないのか、どう思われますか?

 

平:もともと個人っていう概念は、ヨーロッパの人にとってはごく自然なものだと思うんですが、これは日本人にとっては明治(近代)になってから入って来た新しい概念だったんですね。例えば日本人の思想に非常に大きな影響を与えた仏教では、自己というのは存在しなくて、あらゆるものが相対的に影響しながら現象として起きていて、人間もその現象の中の一つに過ぎないという考え方をするので、個人という自我のようなものはそもそも想定していないんですね。ですから、ヨーロッパのindividu(individual=個人)という言葉は僕が本で勉強したところでは6世紀のラテン語に由来する言葉で、最初は“分けられない”という意味しかなかったんですね。しかし、そのわけられないものがどうして一人の人間=個人ということになったかというと、一神教との神との対応関係において、分けられない一つの存在が一人の人間であるというように意味が変化していったと理解しています。一者であるからそれと向かい合う、分けられずに一なる存在であるという、つまり“分けられない”という意味に一人の人間という意味が発生してきたと、その分けられない一(いち)なる存在=個人が近代になって権利の主体となっていくと、そこで日本にその考え方が入ってくるわけです。ところが日本には一神教の伝統がなかったので、国家が近代化していくときに国だとか大きな組織との関係でいうと自分という人間分けられない一つの単位なんだと、分割できない最小単位だというのは理解できたんですね、日本人は。ところが水平的な対人関係を見ると、日本人は会う人ごとに色んな顔を持っていると、つまり人間というのは分けられない一つの存在だという概念を導入しながら日常生活の中では色んな顔を使い分けているという、そのことの矛盾に日本人は近代以降ずっと悩んできたんですね。

例えば、夏目漱石という、近代を代表する作家がいました。彼の主人公の典型的な例は、地方に住んでいる人が、当時近代になって中央集権化されて東京に勉強に来たり、働きに出たりするという、上京の物語を彼はいくつも書いています。そうすると、当時の地方と東京では生活にものすごく差があったので、どうしても田舎で生活していたときの自分と東京の生活に適応していた自分がものすごく乖離してしまうということが起きていました。そして、個人というのはインディヴィジュアルなものでたった一つしかないということを考えながら、もう一方で田舎にいるときと東京にいるときではこんなに自分が分裂してしまっているということを悩むわけですね、漱石の主人公は。そして今は、田舎と東京だけじゃなくて、外国の友達がいたりとかインターネットの世界だとか、関わるコミュニティーがその時より遥かに増えてしまって、そのそれぞれで色々な顔を持っていると、そういう中でどれが本当の自分なのかということを問われた時に、すぐに答えることができないというのが日本で見られている現象で、しかしある程度はもしかするとヨーロッパの世界でも同じ現象が見られるかもしれません。

ですから最近僕は、「個人」という概念に対して「分人」という概念を唱えています。これは分割できない一なる存在というのではなくて人間はいくつにも分割できて、分割された複数の自分が全て本当の自分だという風に呼んでいます。「分人」という、individual に対してdividualという言葉を作ったんですよ。

 

 

A:それは、哲学者Gilles Deleuzeジル・ドゥルーズの著書にも出てくる概念ですね。共同体に重点がおかれる日本の社会においては、人々は、個人であることが難しいがために個人であることを避けようとしている、と感じませんか?

 

平:一つは、未来の社会の不確実性が極端に高まっているからではないかと思います。つまり、未来がどうなるかというのがあまりにもわからなくなっているということが原因にある気がします。日本が高度経済成長をしていた頃は日本も成長していくし、一つの会社に就職すればその一つのアイデンティティーのまま40年間くらい生きていくことができました。ところが今はいつ自分が就職した会社が潰れてしまうかわからないし、そういう意味では自分自身を複数のプロジェクトのようなものとして複数抱えていて、どこかの自分が突然うまくいなかなくなっても別の自分の可能性を生きていくことができるという風に自分自身を複数化していくという傾向があるのではないかと思います。

 

 

A:あなたの作品には、ヨーロッパでは珍しく、日本には存在することが広く知られている「ひきこもり」と呼ばれる人物が登場します。「ひきこもり」とは何ですか?

 

平:「ひきこもり」っていう存在が注目されるようになったのは、やはり僕の世代なんですね。今の40歳前後くらいの世代にみられ、現在も続いています。これは、非常に重度の場合は10年或いはそれ以上、家から一歩も出れないという人もいれば、比較的短期間で終わる人もいますし、一切だれともコミュニケーションをとらないという人もいれば外に出て買い物するくらいのことはできるという人もいます。

多くの人は経済的には両親に依存しているので、両親の家に住んでいて親が食事の準備なんかをしてコミュニケーションをとらずに、例えばご飯だけを運んだりして一切会話をしないというケースも非常に多くあります。僕はカフカの『変身』という小説を読んだときに、その状況が日本のひきこもりと非常に似ていると思ったんですね。つまり、みんなは“変身”という言葉にばかり注目しますが、実はザムザという人も昨日まで当たり前のように会社に行っていたのに、ある日突然会社に行けなくなってその世話をずっと家族がしてるわけですね。その状況が日本の“ひきこもり”と似ていると思いました。もちろんこれは適応障害だとか、もっと色んな病名がついて精神科の治療を受けながら社会復帰をしようとしている人がいますし、なかなかその単純な社会現象としては語りにくい一面もあります。大きな状況としては、この小説にも書いたとおり社会的なアイデンティティーを獲得しそこなって、結局社会そのものとの関係を絶ってしまって、ひきこもってしまうということが起きていると思います。というのは日本では最初に言った通り、自分はこういう人間だ、こういう仕事をしているという職業とアイデンティティーの結びつきが非常に強いので、うまく就職できなかった或いは自分はこういう人間だということが不確かなまま社会に出てしまうと、社会はまるで“毒虫”のように異様な存在として接するわけですね。この人は仕事もしていないし、あなた何ですかと言っても何しているかよくわからない人、そういう存在に対して日本社会が非常に拒絶感を持ってしまうと、それはまるで毒虫に変身したザムザがそのまま外に出て行って人々を不安がらせるのと同じような状況ではないかと思います。

 

 

「日本人は会う人ごとに色んな顔を持っている」 平野啓一郎

平野啓一郎(40歳) 23歳のときに芥川賞を受賞。『日蝕』、『一月物語』、『最後の変身』の3作がフランス語に翻訳されている。

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http://www.franceculture.fr/emission-hors-champs-1